↑ 宇都宮航空学校分校所属のUH-1B/41555.。後方左手は、UH-B/41559
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↑ 1986年の立川駐屯地祭で展示されたUH-1B。既に東部方面航空隊はUH-1Hが主力であり、B型は殆ど残っていなかった。UH-1B/41558
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陸上自衛隊の航空部隊は、航空学校と独立した部隊組織第一ヘリ団を除けば、殆ど陸上自衛隊方面隊隷下の方面航空隊の指揮下に所属していた。北部/東北/東部/中部/西部の大きく5つの地域を取り纏めている方面隊は、幾つかの師団を纏めている昔の”軍”組織に相当する。この方面隊の指揮官は陸将(甲)の総監で、例えば西部方面総監は第4師団/第8師団/第一混成団を指揮下に置き、航空部隊である西部方面航空隊も傘下に置いていた。UH-1は、航空学校を除けば主にこの各方面航空隊傘下の方面ヘリコプター隊に集中的に配備されていたのである。UH-1Bの場合 90機の生産数から航空学校と5個の方面ヘリコプター隊に各10~15機前後が、また数機が北海道の4つの師団飛行隊に、宛がわれていたはずである。H型以降は、方面航空隊の定数が20機となったそうであるので、5個方面隊で100機、航空学校その他の部隊で30機、合わせて130機前後が必要となり発注されている。師団直轄の飛行隊はOH-6/LRなど偵察連絡を任務とする航空機が配備されたが、整備面では方面航空隊が一括で行っていた。本ページで松野氏撮影の第11師団飛行隊所属のUH-1Bの写真があるが、他の師団とは異なり北海道の4個師団には師団用ヘリコプターとしてUH-1Bが配備されていた。
 このようにUH-1は、第一線の師団/連隊の人員や機材を迅速に移動させるための中核を担ってきたヘリコプターで、その重要性は現在でも変わらない。
↑ 1984年に渡辺明氏が宇都宮分屯地の航空祭で撮影されたUH-1B(この頃はHU-1Bと呼ばれていた)/41576。主に陸曹教育に使われていた機体である。アメリカでヘリの操縦訓練を経験した渡辺氏によれば、ヘリ操縦の基本はホバリングであり、最初は徹底的にホバリングの訓練を叩き込まれるそうで、ある程度教育課程を終えても、時間があれば繰り返しホバリングを練習させられ、ヘキヘキするそうである。
↑ 北宇都宮航空学校分校所属のUH-1B/41559。北宇都宮の分校で行われる陸曹操縦過程は2年間で毎年30数名が入校し、TH-55Jでの訓練を70時間行った後に、実用過程に入り、OH-6コースとUH-1コースに分かれ、UH-1コースではで120時間の訓練時間を必要とした。分校
↑ 渡辺明氏が1980年立川駐屯地で撮影されたUH-1B/41543。この59号機もホイスト付であるが、1979年11月に広域防災拠点として再整備の指針が立てられた米軍立川基地の跡地利用計画の件もあり、陸自航空には広域防災とそれに伴う救助・搬送任務が求められていた為、ホイストの必要性はますます高まって行った。
↑ 渡辺明氏が1980年立川駐屯地で撮影されたUH-1B/41543。立川駐屯地にいた50号機と共にこの43号機もホイスト付である。
↑ 1987年に渡辺明氏が立川駐屯地祭で撮影されたUH-1B。東部方面航空隊から姿を消しつつあったB型である。UH-1B/41584
↑ 1987年の北宇都宮分屯地祭でのUH-1B展示飛行。すっかり陸自新迷彩に衣替えし、実戦的な出で立ちに心躍る思いであった。この頃は、毎年の予算でH型が8機程度発注され、各方面隊に優先配備されていたので、航空祭でB型が展示されるr機会はなかったが、北宇都宮の航空学校にはB型が集結して、H型を上回る数が居たので、B型最後の雄姿を見る事が出来た。
↑ 北宇都宮駐屯地 航空学校分校所属のUH-1B/41572。1978年(昭和53年)に陸曹航空操縦過程が霞ヶ浦分校から北宇都宮分校に移管され、UH-1Bは、6機が移動してきた。
Wings
↑ 北宇都宮航空学校分校所属のUH-1B/41550